理想的なクリスマスを過ごせない自分に苛立っていた私はクリスマスの本当の喜びを見失っていました。
キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
キリストは、神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、
それも十字架の死にまで従われました。
こんな日に行かないといけないなんて。
イブもクリスマス当日も授業がある。しかも卒論も書き進めないといけないし。
綺麗に飾られたツリーがある暖かい家でクリスマスを祝う友達の投稿を横目で見ながら、なんで自分はこんな日にクリスマスとは無縁の過ごし方をしてるんだ!と私は心の中で文句を言いました。
友達はカラオケでパーティーをしたり、恋人といつもより少し豪華なデートに行っている。こんなプレゼントをもらったとか、こんな素敵な過ごし方をしているとか、友達のそんな投稿を見れば見るほど自分のクリスマスは惨めだと感じたことがありました。
世間から取り残されて一人ぼっちのような感覚。羨まれるような素敵な過ごし方をしていない自分はださくて、人気がないのではないか。
クリスマスの大事なことはイルミネーションを見たり、ケーキを食べてはしゃぐことだけではないと分かっていても、どうしてもこれらが欲しくなりました。世間的によしとされているクリスマスの過ごし方をすることに必死になって、楽しいはずのイベントが楽しめなくなっていました。
クリスマスが光と喜びに溢れているのは、私たちに希望が与えられたからです。くらい夜に星がまぶしいほど瞬くように。ひとり過ごす家に友達がケーキをもって訪ねてくれるように。
その星は、その友達はイエスキリストです。
理想的なクリスマスを過ごせない自分に苛立っていた私はクリスマスの本当の喜びを見失っていました。本当の喜びとは、天を住まいとする神であるイエスキリストが、わざわざその天を去って、決して居心地のよくない地上を住まいとして選んだということです。赤ちゃんとして生まれたイエスが初めて身を横たえたのは、馬小屋の中の飼い葉桶でした。
イエスは自分の神としての特権を握り締めて離さなかったえらそうな方ではありませんでした。むしろ、赤ちゃんの姿となったように完全に人間となることによって、彼がもっている豊かさを人の間で分け与えることを選びました。彼は謙遜に人に仕える生涯を送りました。しかしそれは義務感からいやいや仕えたのではなく、喜びという動機からそうしました。
イエスは飼い葉桶の中におさまるほど小さな存在になることを選ぶほど、この地上で人と時間を過ごすことを望まれました。この事実は、今を生きる私たちにとっても真実です。
自分と時間を過ごしてくれる人が誰もいないと感じても、クリスマスをみんなのように楽しめなくても、やることに追われて余裕がなくても。そんな人々に、そんな人々だからこそイエスは神にしか与えることのできない希望を与えにこの地上に来られました。
それがイエスが生まれた理由です。