12月が近づき、年の終わりを感じる季節となりました。街には華やかなイルミネーション、店舗にはクリスマスグッズが並び、冬の祭りのような喜びに満ちています。
そんな中、ふと疑問に思うことはありませんか。クリスマスって、実際何を祝っているのでしょうか。
一言で言えば、「イエスキリストの誕生を祝う日」。しかし、この一言には驚くべき、見逃せない深い意味が隠されているのです。
その意味を理解するには、この方、イエスについて知る必要があります。実は、イエスは救い主、そして神そのものだったのです。
イエス・キリスト=救い主イエス
「キリスト」という言葉は「救い主」という意味です。
実は、人は誰しも救い主を必要としているのです。
イスラエルは長い歴史の中で、数々の苦難を経験してきました。他国に支配され、圧迫され続けてきた民族です。イスラエル人たちは辛く、悲しい歴史を歩んできました。
しかし、これらの苦難は彼ら自身の選択の結果でした。神に言われた通りに従わず、自分勝手な道を進んだからです。神は「こうすれば祝福される」と語りましたが、イスラエルの人々はその言葉に従いませんでした。その結果、彼らは他国に支配されることになったのです。
普通に考えれば、これは自業自得です。多くの人は「神は彼らを見捨てて当然」と考えるでしょう。
しかし、このキリスト教の神は、恐ろしい神ではありません。親が自分の子を愛するように、むしろ、憐れみ深く、慈しみ深い神なのです。神は、イスラエルを救おうと心に決めていました。イスラエルを苦しめるつもりは決してありませんでした。
イエスが生まれる何百年、何千年も前から、神は見捨てられたこの人類を救う計画を立てていました。「あなたたちのために救い主を送る」と、イスラエルに繰り返し語り続けていたのです。
「救い」と聞くと、多くの人は苦しい状況から救い出されることや、危機を回避することをイメージするでしょう。実際、イスラエルの人々も、「救い主」に政治的な指導者を期待していました。彼らは、異国の圧政から解放してくれるリーダーを待ち望んでいたのです。
しかし、神が救い主イエスを送った真の意図は、もっと深いものでした。単に外部の苦しい状況から救い出すことが、救いのすべてではないのです。
神は、人間の心の内にある闇そのものから人々を救うために、イエスを送ったのです。
イエス・キリスト=人となった神さま
イエスの誕生には、もうひとつ特別な意味があります。それは、イエスが神そのものだということです。
神が、自分の民をあまりにも愛するがゆえに、人の姿をとることを選びました。
長く待ち望まれていた神なる救い主は、誰にも気づかれない静かな夜に、ひっそりと生まれました。馬小屋で、粗末な飼い葉桶に寝かされたのです。
旅の途中だった、身重のマリアは、出産する場所を見つけられず、やっと見つけたのがこの馬小屋でした。
これが救い主!?と誰もが疑問に思うような、あまりにも控えめな誕生でした。
全能の神でありながら、何でもできるのに、小さく、自分では何もできない赤子の姿で生まれてきたのです。
なぜでしょうか。
人と同じように生まれ、同じように生活し、痛みや辛さ、苦しみ、そして喜びも、私たちと全く同じように体験するため。私たちに近づき、愛し、そして救うためでした。
イエスがこの地上に生まれたのは、心から愛してやまない私たちのためでした。
イエスは生涯を通じて、人々を癒し、死人さえ蘇らせる奇跡を起こしました。しかし、その生涯の真のクライマックスは、十字架上の死にあるのです。
この十字架での死を経験するためには、イエスは神ではなく人でなければなりませんでした。
救いは十字架で完成された
静かな夜に生まれた赤ちゃんは、約30年後、十字架にかけられ処刑されます。
しかし、驚くべきことは、この十字架の処刑さえも、救い主が私たちを救うための神の計画の一部だったということです。この十字架こそが、私たちの心の闇から私たちを救う唯一の手段でした。(十字架についてさらに詳しく→『なぜイエスは死んだのか』)
私たちはクリスマスに、この救い主が来たことを喜んで歌っています。「諸人こぞりて歌えまつれ!久しく待ちにし主はきませり」「全ての人よ、集まって歌ってほめたたえよう!ずっと待っていた私たちの救い主がついに来られた!」という歌詞を耳にしたことがあるでしょう。
2024年の日本でも、また世界でも、このニュースが届く全てのところで。老いも若きも、貧しい人も富める人も、悲しむ人も喜ぶ人も、救い主の到来を知り、喜ぶことができるのです。
このクリスマス、キリストの到来を喜び、共に歌いましょう。イエスは救いをもたらす主です。この方を自らの救い主として受け入れるなら、心に、生活に、世界に救いの光が照らされるのです。